第2回:SDGsを実証してきた老舗企業が考える持続可能性

新型コロナに負けるな!創業100年以上の老舗企業から学ぶ

新型コロナウィルスの世界的な蔓延により、我が国においても戦後最大の国難と言わる程人の生命に危機を与え、経済的も図り知れないほど大きなダメージを与えています。この原稿を書いている最中に緊急事態宣言が発出されました。2008年のリーマンショックの際はお金の流れが止まり経済を混乱させましたが、今回の外出の自粛により人の足が止まり、小売流通業においても苦境に立たされ特に平時なら継続できていた店舗が、最悪閉店や廃業にまで及ぶ事態が起きています。

そこで、この難局を乗り切りアフターコロナの時代後、持続可能な世界を迎えるにはどうしたら良いかを、私が代表を務める次世代小売流通の研究会Next Retail Labのフォーラムに登壇して頂いた、過去の世界大戦、関東大震災では本社や工場は倒壊消失、戦時には職人が兵役に取られなど大きな災難を経験されてきた100年以上の歴史を持つ老舗企業の方々の話を基に各社の歴史とSDGs(持続可能な開発計画)の観点から考えて行きます。

最近耳にすることも多くなったSDGsとは、17のグローバル目標と169のターゲットから成る2015年9月に国連総会で採択された『持続可能な開発のための2030アジェンダ』と題する文書に示された2030年に向けた具体的行動指針のことです。

尚、フォーラムには株式会社山本海苔店専務取締役山本貴大氏、株式会社文明堂東京代表取締役社長大野進司氏、株式会社榮太樓總本鋪取締役副社長細田将己氏に登壇して頂きました。

 

山本海苔店 「おいしい海苔の食文化を守る」

 

山本海苔店は1849年江戸時代末期に日本橋室町一丁目に創業し、その4年後の1853年にペリーが浦賀に来航しました。当時の日本は度々の凶作により飢餓の時代もありましたが、海苔はタンパク質、カルシウム、ビタミン、ミネラル、葉酸を豊富に含む食物繊維でもある為、人々が一年中安全かつ栄養のある食料を十分得られる食物でもあります。その意味では軽く持ち運びが容易なことから目標2の「飢餓をゼロ」や、子供の情緒を安定させる食材1位(子供を強くする食材 成美堂出版長沢 池早子監修)に選ばれている通り目標4「質の高い教育をみんなに」、海苔を保存する箱についても、間伐材を利用する等目標15「陸の豊かさをまもろう」にも貢献しています。SDGsの観点から以上の通り様々な目標を継続する為努力をされていますが、海苔のメーカーとして課題に上げているのが目標14「海の豊かさを守ろう」です。

現在海苔の国別生産量は、日本産が63億枚、韓国産150億枚、中国産40億枚の合計253億枚となっており、昔は日本産がほとんどでしたが漁師の方が減った為生産量が減り、日本国内の海苔需要は84億枚であり現状では21億枚が輸入されています。また、国内海苔需要84億枚の使用状況について贈答用3億枚(平均単価100円/枚)、家庭用23億枚(平均単価18.7円)、業務用58億枚(平均単価14.6円/枚)となっています。

美味しい海苔を作るには、海水の温度、山からの栄養等自然によると事がありますが一番大きい要素は漁師の方次第で海苔は網で育て、成長過程で早く切れば切る程、味や色つやが良いものが出来ます。しかしながら高級海苔市場は1993年16億枚バブル以降縮小しています。高級海苔市場が縮小するとどうなるか、海苔屋は漁師の方から海苔を高く買いづらくなる。すると漁師の方がもうからない(子供が後を継がない)、漁師の方は効率を求めて海苔の芽を伸ばす、海苔が美味しくなくなる、おいしくない海苔は贈答用として使えない、高級海苔市場が益々縮小すると言う悪循環に入っていきます。その循環を変える為に山本海苔店ではいかに漁師の方から高く買って、おいしい海苔の食文化を守りたいと言うことを念頭に置いてSDGsに取り組んでいます。

 

文明堂東京 「過去に使われるな 未来に使われよ」

 

1960年代テレビCMで流れていた「カステラ一番、電話は二番三時のおやつは文明堂」でおなじみの文明堂は、1900年明治33年に中川安五郎が長崎で創業し120年の歴史を持っています。その後大正11年に安五郎の実弟、宮崎甚左衛門が東京に進出して第1号店を出店しました。これが東京文明堂の創立とされています。甚左衛門の教えは「過去に使われるな 未来に使われよ」と職人達に伝えており、その意味は明日のことを思い今日の行動を起こす、来年の事を思い今年のことを考える教えであったこと思います。翌大正12年に関東大震災にみまわれ店舗が消失してしまい、一旦は長崎に戻りますが再び東京に進出、その後7つの地域に暖簾分けされ、現在総本店含め8つの地域の共同体として展開していました。暖簾分けのメリットとしては、意思決定の速さ、地域特性に合った商売・お客様への近さ、地域認知度の向上、それぞれの会社活動により、全国区での地名度アップにつながりましたが、一方、制度疲弊、お客様の商品に対する認知と異なる、販路競合、リスク拡大、ブランド化を阻害、成熟期には弊害となることが起こった為従来の暖簾分け地域を部分統合して現在は総本店、東京、神戸、横浜の4つの地域に集約されました。
カステラは16世紀に出島があった長崎に伝わり、その後日本人の舌に合うよう改良が加えられ現在は和菓子としての位置づけにあります。シンプルな原材料で、添加物などは不使用な健康を応援する菓子として目標3の「すべての人に健康と福祉を」に該当します。

また、目標12の「作る責任 使う責任」にあたるフードロス対策として、今までは廃棄されていた焼き損じのカステラをどうにか一等品として販売できないかと考えられたのが昭和47年に発売されたカステラ巻き、傷がついてしまった二等品は工場売店のみで販売、製造工程内で出た残りについては飼料として使うことを昔から行っています。

製造販売についても店舗では必要な分だけ裏で作り表で売る、今でいうSPA方式を取っており、出来立てをお客様にお届けする為に暖簾分けしたメリットしては、それぞれの地域で行うことで物流ロスも無くしています。これは目標12の「つくる責任 使う責任」に辺り、更に製造面で欠かせないカステラ釜も炭釜からガス、電気、省エネ釜(ロス、CO2排出減)を開発して、目標7の「エネルギーをみんなにそしてクリーン」を実現し、販売の仕事をしながらも、人と人との関係や生きていく上で必要なことを身につける目標4の「質の高い教育をみんなに」、農業の閑散期がお歳暮の繁忙期にあたる為、地方から人を受け入れ農作業の時期は帰る季節社員や集団就職採用は、目標1の「貧困をなくそう」に取り組んでこられました。

 

榮太樓総本舗 現代から未来へ 江戸の志を世界へ発信

 

榮太樓総本舗は、創業200年1818年文政元年飯能の菓子屋として創業。江戸に出府、九段坂の付近に「井筒屋」を構えました。その後、創業者細田徳兵衛の曾孫細田安兵衛(幼名栄太郎)が日本橋の袂に屋台を開いたのが始まりです。彼の焼く金鍔(きんつば)が江戸の評判を呼び1857年安政4年屋号を「榮太樓」と改め今も本店がある日本橋に店舗を開業しました。江戸末期から戦前は飴と歩んだ黎明期で、安政年間看板商品「梅ぼ志飴」「甘名納糖」(甘納豆の元祖)明治に入り「玉だれ」「黒飴」を製造、1877年第一回内国勧業博覧会で「甘名納糖」が優等賞受賞、1887年ロンドンで開催された万国発明品博覧会に出品、このころ東京繁盛菓子屋番付に大関や横綱としてたびたび掲載され、東京随一の繁盛店として認知される。1945年東京大空襲で日本橋店舗、工場が消失、復員して来た職人を集め戦後すぐに復興を志します。1951年(昭和26年)日本初の食品名店街で現在のデパ地下のルーツでもある「東急東横のれん街」の設立に尽力を尽くし、敗戦後の東京において目覚ましい復興を遂げ事業を大きく発展されてきました。高度経済成長期には、全国の百貨店、駅ビルに食品名店街がひろがるのと共に、北海道から沖縄まで全国に店舗を広げてその後全国のスーパー、コンビニ等で各種商品を広く販売するようになりました。

榮太樓飴は代表的な東京土産となりました。

「みつ豆」「あんみつ」の味を商品化「美味なるものの大衆化」を揚げて専用のかんの開発から着手して長期保存のメリットを合わせ持った画期的な甘味として広く呈茶億させた。

革新期として、変わる流通と商品開発

1994年 平成に入り量販店市場にて「黒みつ飴」「しょうがはちみつのど飴」を発売

全国のスーパー、コンビニ等で各種商品を広く販売

江戸の屋台の味を全国で召し上がって頂けるように礎であるキンツバを個包装にリニューアル

時代の変化の中で進化している

人々のライフスタイルの変化に合わせて2015年多彩な和の岡氏からすこしずつ貯める「にほんばしえいたろう」、2017年体に優しい糖質オフの「からだにえいたろう」懐かしい東京の臣上げ「東京ピーセン」を復活

次の200年に向けて

 

東京の変化に順応 京都の和菓子屋とは違う

飴の原価はいっぱんてきに10銭/個、榮太樓は5円/個 500倍の原価のモノを

定価では3倍で売っている。 日本で一番高い雨

本物の味へのこだわり 普通は原価の高い黒糖を減らして合成甘味料などを入れて原価を下げるが

榮太樓は沖縄の黒糖を使い続けている

生産農家も作付けが限定されているので、新規では売ってないが100年間買い続けているので家太郎枠がきまっている)とらや枠も決まって居る 長年の信頼関係

もしごめ 江戸の持ち:満月もち 無農薬

お陰様農場 年間1トンしかとれながったものを 年間20トン必要 作る大変さを知る意味で5年枚から2週間に一度行き農家を手伝う

生産者を絶対に浦平内

今年は良かったけれど来年はべつのところに階に行くことはしない 継続的に買い続ける

あずき(とかち)襟裳小図

農家としてはつくりやすい効率的の良いものを作りたがる

小豆の相場が上がり1.5倍、1.8倍上昇 北海道の凶作が続いてあずきがない

あずきバーはカナダ産にシフト

大量に使っていたところが抜けると、生産が途絶えるので、踏ん張って高くても買ってきた(使う責任)メーカーとして原材料を使わせてもらう責任がある

メーカーとしては美味しいもの、安全なものを提供する責任がある

変わらないためには変わり続ける

ディスカッション内容

代々続けている中で変えないことと変わることについて

山本)売り上げ、利益を上げることより長くするするためには仕入れを高くしてでも信頼関係を続ける

大野)善意の積み重ね、昔からの取引先を大切にする、お客様との関係(信頼関係を保つ、だましてはいけない

細田)鵜も母子飴の作り加賀は超アナログ、その着くr方は変えるな、その作り方をしないとできない飴

江戸の餡は読、京都の餡とは違く

他は何をやってもいい

 

 

変わらないと言われるには変わり続ける

 老舗企業にとっては、SDGsが話題になる遥昔から当然のこととして取り組んできたと事であり、改めて言う程のことは無いとおっしゃいます。また、とかく老舗と言われる企業をイメージするのは、伝統と格式を保ちながら昔ながらの商売を続けているイメージがありますが、これまで述べてきた通り変えずに伝承して行くことと、常に時代の流れやお客様の嗜好に沿って常に変革していくことが、持続性のある企業の在り方であることがわかります。

昔からの取引先やお客様との繋がりを大切にして、信頼関係を維持し続け時代に沿った流通チャネルを活用していく姿は、どの企業にとっても参考になることと思います。

フィルゲート株式会社 菊原政信